映画『沈黙 -サイレンス-』神父とキチジローのイラスト

たいがいの人は内容を知っている?『沈黙』

ネタバレになる内容には頻繁に触れるのですが

私と同年代前後は内容を知っている人は多いのではないか。高校か中学だかの教科書に出ていたので。

私も若いとき読んだんです。それにあたり今回、読み直してから映画を観ました。

感想は今と昔は違いました。昔は、

え?なんでそこで踏むかな?

と良く分からないなあ?との感想しか持たなかった。陰鬱なだけの裏切り小説だと。

選択に迷うとき神仏は沈黙する

しかし、大人(おばさん)になってから読んだ「沈黙」は違いました。心にかなりズシンとくるものでした。

それなりに私も苦悩してアラフィフを迎えたせいか。

信仰や宗教に関わりなく、私がこの映画について思ったのは

人生の”選択”について書かれたものではないかと。

『沈黙』という映画や小説の物語の大筋は、一貫して”選択”について書かれています。棄教するか殉教か。キリストの踏み絵を踏むか踏まないか。裏切るか信じるか。信仰と信条の”選択”を描いたものです。

私も私たちも、この人生で”選択”をしながらきたはずです。ゼイゼイ息切れしながら年取ってきたはずです。多かれ少なかれ。この仕事しようかあの仕事しようか 結婚しようか 子供つくろうか あそこに住もうかここに住もうか あれを諦めようか 辛いけどあそこであの人を裏切る 見捨てるしかない など。そう、ウラギルという選択も年を取ると選ばなくてはならない。

”選択”にあたり、誰も教えてくれません。神に問うても答えてはくれないのです。命がかかった二択ですら。神は黙っているんです。沈黙するんです。

自分で考えろ。選べ。と。

何度神に聴いても祈っても返事がない。そして唯一の声が微かに聞こえるのです。キリストがユダに言ったあのセリフを。

行け、おまえの為すべきことを為せ。と。

踏み絵を踏む=裏切る という選択の意味は

一生踏み絵を踏まないで生きていける人はいるのでしょうか?

一度も裏切らず嘘をつかず意識高いまま夢をかなえて死んだ。それは確かに美しいし、かっこいい。

若いときは頭の中はそんなおキレイな理想が一杯詰まっているからね。裏切るなんて選択は選択肢に入らないですよ。

自分がいかに純粋ですごくで意識が高いか!

ということを誇示して、華々しく散るか夢をかなえることしか見えないのです。

大人になると自分の夢を裏切り友達を家族や仲間と揉め縁を切るようなこともある。それでも生きていかなくてはいかないのです。

この映画の神父たち、恩師を追って、キリスト教禁制の日本にやってきたのも若い青年神父たちです。

そういう意味ではこの映画を「若い青春時代の挫折と光」についての物語だと観ることも出来るでしょう。

沈黙 -サイレンス-(字幕版)

そう観ない人ももちろんいるでしょう。

しかし、色々な要素、側面で観れる映画だと思いました。

キリスト教の小説がなぜベストセラーになったのか

日本では現在もキリスト教徒が非常に少ないです。(というか宗教を真剣に信仰しているという人自体が日本には少ない)

この『沈黙』という小説は、江戸時代の日本の辺境のキリシタン禁制を扱った非常にマイナーな内容。それなのに何故ベストセラーとなったのか。

世界中で翻訳されノーベル賞候補にもなったのは、他国・特に先進国にキリスト教人口が多いせいです。(ノーベル賞を貰えなかったのは、キリスト教の痛いところを突いたせいもあり批判があったため)

なのになぜ、キリスト教者でない日本人にこの小説が愛されて今も読まれているのか?

映画をこのたび見たらその魅力が改めて分かりました。

色々な層や考え方の人に楽しめる(と書いたら不謹慎かもしれない内容ですが)のです。

老若男女宗教宗派関係なく、心の何等かの琴線に触れるのではないでしょうか。

キリスト教や宗教に関わっている人、かかわったことのある人 戦国時代や江戸時代が好きな人 キリスト教美術が好きな人 色々な要素がつまっている映画です。昨日観た「この世界の片隅に」もそうですが。トランプ就任にあたり、転換点を世界も日本も迎えている。その自分なりの視点を探ることもできるでしょう。

今回の、映画『沈黙 -サイレンス-』は、ほぼ原作通りのものでした。その上、キャストや演技が素晴らしい。

デートにはお勧めできませんが…。

私は映画館で観る楽しさの一つに、周りの観客の客層を見ては感想を盗み聞きしたりしたりするというのがあります。下卑てますが、オバサンだからねw

何の気なしに入ったであろう若いカップルが観たあと

「観るんじゃなかったね…」「うん…」「ポプコーン食べれなかった…」と呟いているのを聞きました。

ああ、デートに見るもんじゃないスよ。うん。

歴史の授業でフランシスコザビエルや島原の乱を当然習ったであろうから、その延長で、安土桃山時代の異国情緒を味わうつもりで入ったのでしょうか。

フランシスコザビエル

違う意味の異国情緒たっぷりで食欲が失せたのでしょう。私は上映中平気でオヤツ食べてましたが…。

観客層としては老若男女平均していたと思いました。公開スタート直後というのもあり満席でした。

遠藤周作は私以上の中高年が知るベストセラー作家なので年配の人は無論多かった。映画館慣れしてない人もいて(カトリック教会関係者?)と思わされる人もおられました。

イケメン大受難映画

意外に若い人が多いのがびっくりしました。それも女性が多かった。。。

浅野忠信や窪塚洋介(敬称略しますスイマセン)の人気もあるんでしょうが

主人公の神父役アンドリュー・ガーフィールドがイケメンでした。

はい、イケメン、イケメン、イケメンが多かった。

イケメンが苦悩するイケメンが裏切る。イケメンが拷問される。イケメンが半裸で拷問される。イケメンが優しい。イケメンが十字架に張りつけにされる。

映画「土竜の唄」

▲これは違う映画ですが、美青年がハダカで張りつけになってます。まさに磔刑図wこの映画が女子の支持を得ているのはこういう訳がありましょう。

映画『沈黙 -サイレンス-』では、アンドリュー・ガーフィールド、浅野さん窪塚さん、そしてあの美しい加瀬亮様は片目を潰され、惜しげもなく惨殺されます。ああ…。もったいない…ああ労しい。

女性が萌える要素が確かにある

こうしたBL的マゾヒスト萌え要素が確かにある。

映画には大仰な男根主義のような男優が一人もいなかった。そして女性役が一人しかいない。(クリスチャン農婦役の小松菜奈さんは非常にかわいいですが、汚れ役です)

時代劇によくある男性に都合のいい「あ~れ~」的なエロやロリな女優もいない。ヒロインがいない。そういった意味で、自覚的にもそうでなくても、女性にとって非常に好ましい残酷歴史映画だといえます。

老人奉行役のイッセー尾形も”狡猾”というキャラクターではあるものの、どこまでも清潔で何か殉教者のような雰囲気のする役者さんです。

映画『沈黙 -サイレンス-』イッセー尾形

確かに拷問シーンは眼をおおいたくなりますが、残酷拷問コンテンツというのが確かにあるのです。貧困コンテンツというのがあるように。

拷問というか処刑コンテンツを楽しむマンガに「イノサン」があります。

何故キリストの張りつけがシンボルなのか

人はひどいわ、可哀想だわ、見たくないといいつつ、残虐シーンを見て何か胸をすくようなスッキリ感はないでしょうか?だからこそ、ゾンビ映画はヒットし、キリスト教には磔刑図は必要なのです。

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半裸で十字架に縛られる若い美青年(キリストは死期33歳)を崇めるからこそ、だからこそ、信者たちは殉教できるのです。

彼らはキリストへの愛を頼みにします。

アガペーは神から人へのものですが、エロスは確かに人間から神への愛です。

悲壮感という名のエロスを修道士たちは味わいながら信仰生活を送る。彼らは生涯独身(童貞)です。異性のナマの性を味わうかわりにキリストに全ての恋心と愛情とエロを注いで生きるのです。

映画の主人公も「あの人」とキリストを呼び、たえず彼に呼びかけ祈りその御顔を想像しながら、悲壮な日本伝道を全うしようとします。

無視、沈黙、シカトする神

しかし「あの人」=キリストは沈黙している。

シカトですな。

その人を信じてここまできたのに、いざというとき、よっしゃあ、いざその時

ツ~ン、知らへんわ、

という神。エリ エリ レマ サバクタニああ。

キリストを信じるものが殺され虐待拷問されても助けない。呼びかけない。黙っている。映画の題名はその「沈黙」をテーマにしています。

なんでやねん!
なんで神はん 知らんぷりしてんねんやあああ!!!

映画『沈黙 -サイレンス-』予告編

ユダとキリストの恋愛映画

先にこの映画にはヒロインがいないと書きましたが、正確にはヒロインはロドリコ神父(アンドリュー・ガーフィールド)です。美しい青年神父。

そして相手役は彼にまとわりつくキチジロー(窪塚演じる信徒)の追い追いかけられの物語。

映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作原作 登場人物

神父=キリスト キチジロー=ユダ の象徴であることは明白です。

キリストとユダの愛と恋愛は、男性性の肉体愛ではなく、拷問と裏切りのマゾヒストの恋愛なのです。BL好きの人にはたまらないのでは…。

ユダの接吻

この図式は新しいものではなく、絶えず、キリストとユダの関係は問われています。

何故ユダはキリストを裏切ったのか キリストは何故彼が裏切るのを知っていたのに行くにまかせたのか

この映画もこのテーマが通底しています。

なぜユダはキリストを裏切ったのか そしてなぜ許したのか

ユダはキリストを裏切るときキスをします。キリストを捕えようとしている警視たちにこっそりと「私が接吻する人がその人である」とあらかじめ言ってあるからです。

ユダはその見返りに銀貨30枚を手にして、その後後悔して自殺します。

ユダであるところのキチジローは、何度も神父に許し(接吻)を請います。

神父はその許しの儀式を断ることが出来ません。そういう決まりなんですね。司祭は告解を求めてくるものを拒んではいけないのです。

映画『沈黙 -サイレンス-』神父とキチジローのイラスト

かくして、キチジローは何度も何度も仲間を信徒を家族を、そして愛する神父を裏切り続けるのです。いいかげんにせいや、というくらいに。

キチジローの危うい摩訶不思議な、DQN性。まさに窪塚洋介のあの存在感でしか表現できないでしょう。

なんでこんな糞やろうがいるのか。遠藤周作さんは何故このキャラを生み出したのか。

キチジローは自分自身であると原作者、遠藤周作は述べていたといいます。


『沈黙-サイレンス-』予告

ロケの失敗?ここは日本・長崎じゃない

1月21日に日本公開された遠藤周作原作 映画『沈黙 -サイレンス-』。

非常に優れた映画ですが、一つだけ惜しいと思ったのが、ロケ地です。台湾だそうですが、熱帯雨林すぎます。

映画『沈黙 -サイレンス-』窪塚洋介のキチジロー

霧やシダ植物が多すぎて東南アジアみたいです。あまりにジャングルすぎるので、途中で少ししらけました。日本でのロケは色々な事情で困難なんでしょうか。

長崎の街の光景も、どこかしら変な感じです。それでもあの「ラストサムライ」よりは日本的文化に忠実なのでハリウッドの日本観も少しは進化しているのでしょう。

長崎は今日も雨だった

前川清さんは歌います。


長崎は今日も雨だった(高音質) 内山田洋とクールファイブ

映画は日本的な背景でないのをごまかすため?などと思いたいくらい雨だらけです。水分が多すぎです。海は荒れ雨がじめじめ降り山が霧で覆われてます。実際 長崎県の降水量は全国12位だというので、多湿な地域なのでしょう。だからそう荒唐無稽な光景ではないのかもしれません。

あなたひとりにかけた恋
愛の言葉を信じたの
さがしさがし求めて
ひとりひとりさまよえば

二人のイケメン神父たちが歌のごとく長崎の雨の中をじめじめと漂い逃げ 霧の中を泣き叫びます。キリストをイエスを信じてここまできたのに、誰もいない。神はいない。沈黙している。なぜ、なぜなのよ♪

映画『沈黙 -サイレンス-』とは

この映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作原作は、江戸時代、切支丹迫害の頃ポルトガルの司祭が日本に潜伏侵入した物語です。

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入

映画の主人公、二人の神父はフィクションです。が、二人の師匠であるフェレイラは実在します。実際背教神父として資料が残っている。

クリストヴァン・フェレイラ – Wikipedia

島原の乱は寛永14年(1637年)にはじまり寛永15年(1638年)に完全収束しました。

物語の二人の神父がポルトガルからマカオ、そして長崎に密入国したのは1638年と小説にあるので、まさに島原の乱の直後。殺されに行くようなものでしょう。

まさにバカ怖いもの知らずですよね…。。。。。

二人の司祭のこと

二人のポルトガル宣教師が香港マカオを経由し、日本・長崎に苦労して侵入します。

主人公のロドリゴ神父はアンドリュー・ガーフィールド。この人、スパイダーマン役をしてたんですね。アメリカ的イケメンです。ポルトガル人的容姿ではないですね。

映画『沈黙 -サイレンス-』アンドリューガーフィールド

わざとまさにアメリカ人な顔にしたんじゃないかって思うほど、まさに現代的容姿です。浮いた感じです。調べたらユダヤ系です。特別映像インタビューでは

あらゆる人が正しくあらゆる人が間違っていることだ 答えはひとつではない

と述べています。まさにユダヤ的な宗教観倫理観です。(ユダヤ人の議論は人数分以上の回答が導きだされる)

一方、もう一人の神父、ガルペ神父を演じるアダム・ドライヴァー。

彼らは自分たちが勇敢だとは思っていないだろう。ただ自分が信じることに立ち向かっただけだ

と言います。どちらも真理です。

ドライヴァーにはアメリカ同時多発テロ事件をきっかけにアメリカ海兵隊へ入隊したという経歴があります。ガーフィールドとは違う、より鮮明でシンプルな宗教観を持っているのではないでしょうか。

映画『沈黙 -サイレンス-』アダム

ドライヴァーの容姿は、ガーフィールドと対象的。南欧・スペインやポルトガル的雰囲気がある…、それもルネサンス以前のこの頃のイコン、キリストの容姿に似ています。面長で黒髪に近い茶色。

西洋的キリストイエス

▲こういうのがこの頃の一般的イエス顔です。アダムさんの容姿に似てますね。エルグレコっぽい長い顔。

ガルペ神父という役柄も、まさにキリストの磔刑、その純粋な殉教そのものです。主人公ロドリゴ神父がキリストの似姿のように死にたいと願い続けながら出来なかったのに対し

友であるガルペ神父は信徒たちのために死にました。まさに名もなき民衆のために身を投じて死んだキリスト。神の子体現する象徴ではないでしょうか。

ロドリコ神父はどんなにこの友の死を悲しみ、その姿に続こうと願ったことでしょう。

仏教には五体投地という考え方があり、同じように身を神仏に捧げます。しかし、その根本思想は違う。キリスト教のそれ=迫害からの殉教は、教えの中でも根幹・最高峰です。迫害されて死ぬことはイエスに習うこと。信仰の完成点への到達です。

しかし長崎の信徒たちの拷問死は、実態は違う。そんな華々しいものではなく、ありえないほど悲惨で汚く、惨めなものです。

ロドリコはどうしてこんな惨めな死を弱い民衆・貧農たちがしなければならないのかと疑問を持ち始めます。何故神は彼らに呼びかけないのか、沈黙しているのか、と次第に絶望してくるのです。そこが殉教した友人との違いです。

長崎の切支丹(キリシタン)迫害は善悪二元の単純なものではない

この島原の乱は、西洋人の思うヒロイズム=キリスト教への弾圧 健気な信徒たちへの迫害 という単純な図式ではない。

島原の乱の死者はカトリックも殉教者とは認めてはいない。宗教的精神的なことではなく、政治的な側面が非常に強い。武将が多く肩入れしていたからです。その蜂起は4万人程度の規模というから、単なる百姓一揆ではありません。日本国内の巨大内乱・戦争そのものだという位置づけなんです。

島原の乱を許したら一向一揆のように長引き広がり、国の危機に陥ります。ましてや、キリスト教には西洋諸国が肩入れしてますので、オランダエゲレス、宣教師たちを通じて武器をどんどん持ち込み大混乱になる。今日のアフリカ諸国がそれです。長い歴史でキリスト教の侵入と植民地化を許したあげくの果てが現在の姿です。

日本は閉じて食い止めたんです。そのままキリシタンを放置したら内乱どころか、せっかく徳川政権で統一された日本が崩壊してしまう。キリスト教国に占領分割されてしまう。だから徹底的に切支丹達を弾圧根絶やしにする必要があります。

長崎は切支丹大名の土地であった

古くは、長崎は、関ヶ原のキリシタン大名の小西行長(こにしゆきなが)の支配下にあった。

小西行長

小西は西軍だったので、惨殺されました。しかし、結果、この土地は切支丹の精神的土壌が非常に強い。

その系譜・関ヶ原の西側を非常に徳川政権は弾圧するんです。現在でも、西軍に肩入れした土地(例えば大阪)への江戸時代の差別・迫害が影響していて結果、部落問題や貧困問題と結びついています。関ヶ原というのは現在まで非常に陰を落としている戦争です。

西軍側のキリシタン思想があった長崎。年貢も非常に厳しいものとされました。つまり徳川政権によるいじめです。

映画の貧農たちもありえないほどの貧しさ、乞食といっていい惨めさです。ドブネズミのような貧農たちが押し寄せ、身を寄せ合って暮らしている。小魚をわずかに口にするシーンが何度も出てきます。

西軍側の思想系譜を弾圧する意図で過剰な年貢を取りたてた。その厳しさが一層、民衆のパライソへの信仰、切支丹信仰への傾倒を促したともいえます。

キリスト教を許す=(イコール)徳川政権の崩壊 関ヶ原の西軍側が盛り返すかも? 国の転覆

に関わるんです。

だからああまで拷問したりするのは、別に西洋人の邪教が嫌いだとかでなくて、ほんと仕事として、ああしなくちゃ、長崎全体が戦争、内乱状態の危機にあったため、しょうがないのでした。

日本は鎖国=他国への壁を作った

イッセー尾形さん演じる奉行 井上筑後守 が非常に老獪に狡猾に事にあたるのは仕事なんですよ。そういうのが好きなわけじゃない。「業務」なんです。

だから単純に弱いものいじめ、そしてその弱き群れを助けようとする司祭、という単純な視点で観たら肩透かしをくらいます。映画はひっくり返してきます。

トランプさんが壁を作ると騒いでますが、日本には天然の壁、海があったんです。それでも宗教はしつこく海を越えてやってきて、民衆の心を変えて内乱を起こすのです。海があったから日本は助かった。それが明治まで国を守ってきた。この時代、鎖国を選んだのは英断です。

グローバリゼーションは人々を一つにして、普遍的な正義や真理をもたらすと西欧諸国は考えました。しかしそれは幻想であると薄々気が付いているではないですか。現実に同じ土壌の一つの神を信じるイスラムとキリスト教国。彼らが互いに微塵も分かりあえていない。それどころかEUを瓦解させようとしているのだから。

思想の違う、宗教の違う 人種の違う人々と分かりあい、助け合う兄弟姉妹のような素晴らしい世界があればと誰もが思います。それを目指したのがEUだったのに…。相互理解以前に国が崩壊してしまいます。

日本が鎖国を完全成し遂げたのは1673年(延宝元年)のことです。この物語の約40年後。その鎖国に至る経過がWIKIにも出ていますが、この物語は、その鎖国政策の渦中のことです。ここで国を閉じなければ、現在の日本国はなかった。国はとっくに滅びていたに違いありません。

島原の乱には幕府側にオランダが肩入れしています。その時代、ポルトガルvsオランダ状態にありました。まさに日本を舞台に、キリスト教を隠れ蓑にヨーロッパ諸国が覇権を競ってたわけです。

日本からしたら、ええかげんに出ていって!もうガイジンはいらんわって言いたくなるでしょう。

ロドリコと井上の会話は現代日本の有様を述べている

そうした防衛や政策の実務を担う井上筑後守にとっては、二人の神父がさぞかし子供に思えたでしょう。

純粋な師匠への愛と信頼、キリストへの情熱溢れる青年神父のヒロイズムや勇気など、ちゃんちゃら可笑しい、と。

ロドリコ神父と井上は禅問答のような問いと議論をします。

井上「ある大名には4人の妾がいる。その妾は互いに嫉妬しあい争い見苦しい。だから大名は4人とも放り出した。この4人がイギリス・ポルトガル・オランダ・スペインだ」

神父「その中から一人正妻を選べばいいではないですか?」

井上「ヨソの国から妻など選ばなくてもいい」

神父「妻が貞節でありさえすればいいのではないでしょうか?」

井上「一人の醜女の深情けほど重くて嫌なものはない。そしてその妻は子供を産まない」

これは例え話です。日本国に、列強の思惑と下心があるキリスト教という妻はいらないと言っているんです。そしてこの宗教は重苦しい愛情を押し付ける。そのくせに日本の風土や土壌に合わないから子供ができない。つまり、根を張らない、と。

これは非常に上手く日本国の姿を指摘している問答です。

優しくユーモアがあり恐ろしいイッセー尾形さん演じる井上筑後守

井上も、仕事として迫害拷問はするものの、元はクリスチャンだったことがあるんです。なので、彼らの純粋さに惹かれずにはいられない揺れ動く情もある。

井上はポルトガル密入国神父たちの青臭い理想の言論に微笑ましく付き合い、かつ見下げ、

司祭たちの深層意識が傲慢であればあるほど、その弱さを見抜き、転向を預言するのです。

「ロドリコは必ず転ぶ」

転ぶ、とは棄教のことです。踏み絵を踏んで転向することを意味します。

井上は神父たちが憎いわけではない。神父たちが棄教・転向したあと、住処や仕事、そして妻子をあてがい、日本で寿命を全うできるよう手配してくれます。

しかし、決して、切支丹に戻ることは許さない。その萌芽が見つけたら容赦なく拷問死させます。

めっちゃ仕事のできるオッサンや。。。

その知性と合理性・老獪さ・怜悧さを持つ不思議な日本人奉行、井上筑後守。イッセー尾形さんは、実に上手く演じておられる。

映画『沈黙 -サイレンス-』イッセー尾形

その微笑みは優しくユーモアがある。オスカー賞候補だそうな。

blogos.com

西洋人の思う殉教と日本のそれは違うのか

映画の公開後、日本人の演技が評価されていますが予告編には西洋的な観点が色濃く表れています。

見比べてほしいのですが

日本国内向け▼

アメリカ版▼

アメリカ版は、二人の司祭の信仰への勇気やヒーロー性を強調してます。

反対に日本版は日本キャストの表情を映している。そして民衆民俗的な土着感情・被害的な光景が映し出されます。

キリスト教徒はヒーローか?

アメリカ人は自分が勇気のあるヒーロー(英雄)になることを好み、日本人は忍耐強く無名な地味な民衆が”仲間で助け合い”殉職することにカタルシスを覚えます。その嗜好の違いが予告編に出ていると思いました。

しかし、アメリカ人の好みに関わらず、原作は(映画版も)決してキリスト教の正当性、伝道のヒロイズムを前面に出すものではありません。

遠藤原作にはポルトガル人伝道師・司祭たちの傲慢さと日本という国への蔑みへの批判が込められています。(映画はやはり白人の傲慢さという描写を控えめにしています)

俺らは白人でオマイラの知らないすごい普遍的な真理を知ってるんだぜ。わざわざ教えに来てやったんだからありがたく思えや!

という白人優劣主義への強烈なアンチテーゼがあるのです。

そのあたりが原作小説がノーベル賞が取れなかった理由だったんでしょうか。ノーベル賞は白人の決めるものですからね。

このアメリカ版予告編は、そうした白人感情に配慮しているのかなあ?なんて思いました。

勇気のある信仰心の強いまさに保守的キリスト教徒たち(トランプ支持者?)が恐ろしい土地に冒険乗り込み啓蒙指導に行く。コミックヒーローみたいにね。崇高な精神性を持つ俺らクリスチャンすげえぜ!と讃えている傾向があるのでは…。

そういうの大好きですよね、アングロサクソンやアメリカ人って。だからイスラムに余計なお節介をしたり「教えて」やろうとかするんですね。そういうのがもう限界だからテロが起きまくり、アメリカや欧州は仕掛けた責任を放棄し、自分ら正しい白人のことだけ考えよう、壁を作ろうという云いだしたのです。厄介な人らですよ。

彼らがこの映画をどう評価するのかとても興味があります。未開人のところに行って教えた俺らすげえ踏み絵を踏ませた日本人許すまじって言うのかな。

日本は沼だ

日本は自身で知ってるんです。

自分たちはヨソの国のものを受け入れているようで受け入れてないって。キリスト教のクリスマスは恋人のパーティで、ハロウィンは子連れの仮装大会なんですよ。で大晦日には寺で鐘をついて正月では鳥居をくぐりおみくじに一喜一憂するんです。

西洋人にはまさに日本は根が腐っている沼といいたいでしょう。これが日本です。すいませんね。ジメジメしていてどっち付かずであれこれ信じて、同時にどれも信じないんです。

日本は沼地だ。日本という土地の風土や土着の宗教がある。どんな植物もそこでは根を張らない。腐っていく。

「未開の貧しい信仰を知らない日本人という土人にただ一つの真理を教えてやる。」司祭たちもそういう傲慢さがあるんですね。残念ながら日本にはあなた方の信じるただ一つの普遍的な真理が分からない。あれもこれも善であり悪であるというドヨンとした曖昧さが性にあうんですよ。

いつの間にか、キリストは大日さまになるんだよ。。。。(古来からある太陽信仰)

諸星大二郎の隠れキリシタンのマンガ読んだことあります?

パライソさ行くだ!っていい感じに日本独自の土着「祭り」に変質しています。

このマンガは怪奇マンガなんで、おどろおどろしいです。ちょっと現在のキリシタンの人はこのマンガは嫌がるかもしれませんね。。。。

信仰は守られていた

その後迫害を潜り抜けた隠れキリシタンたち。彼らは19世紀に信教の自由が回復するまで潜伏し、信仰を守り続けた。その数約1500名。驚くべきことです。

小説・映画でもあるように、切支丹だから迫害されるのではなく、邪教だから弾圧されるのではありません。

海外から司祭、指導者が入りこんでくるのが問題だというのです。

だから日本人の末端信徒が踏み絵をして転ぶ(転向)を宣言しても、拷問を止めない。司祭が棄教すると言わないかぎり。司祭、指導者が問題なんです。海の向こうからきた醜女の深情けを持つ外国人たち。

物語の最後、最後の司祭だとされるロドリコが棄教した後は、切支丹たちは暗黙の了解で放置されたと。

カソリックはローマを頂点とする全世界組織だから、司祭がもうこない、ローマと縁が切れたらぜんぜん危険じゃないんですね。

地方の一宗教として、表面上禁止はされているけど、前ほどは拷問されないのです。

宗教の持つ危うさ、善と悪を正面から描いた映画『沈黙 -サイレンス』

映画は日本の頑固さと集団ジメジメ体質・そして白人の弱さ傲慢さを痛烈に突いてます。原作よりも控えめですが…。日本という豆腐のような、捉えどころのない国民性を批判すると同時に、白人思想の他国への「普遍」な真理を教えてやろうという姿勢がいかに愚であるかも映画は語りかけます。

この曖昧さが残る深淵なラスト。原理主義者の多いアメリカなどキリスト教国の単純明快な信仰心には受け入れがたい部分があり、賛否が分かれることでしょう。しかし、そうしたハリウッドの白人偏重主義が蔓延している中で、この表現は勇気がいることだ。スコセッシ監督ってすごいですねえ。

ちょっと踏み絵をふむだけよ…

映画『沈黙 -サイレンス-』浅野忠信

イケメン青年神父 ロドリコはあの手この手で改宗棄教を迫られます。厳しくされたり優しくされたり、かつての上司に会わせて話をさせたり、同僚を目の前で死なせたり。

一番落とし穴的にかつ耳に響くのは、浅野忠信演じる通辞(=通訳のこと)の説得でしょうか。

ちょっと踏んだふりするだけやねん 心を込めてしなくていいねん 形式だけだからさあ ねえ、ちょっとだけよ~ちょっとだけ~

と実に優しく、諭すように微笑みながら語りかけます。老人にハンコを押させる豊田商事か。

映画『沈黙 -サイレンス-』浅野忠信写真

通辞はきっと本当は残虐拷問なんて見たくない。

ガルペ神父が死んだときの通辞の嫌っぷり。

先日書いたように、彼も仕事です。キリシタンはあっさり棄教してくれたらいいと思っている。俺の仕事も減るし、拷問なんて見たくないし、関わりたくない。残虐シーンがなければ今晩眠れるのにな。神父、踏んでよ、お願いだから、踏んで!ったらという感じです。

切支丹をいじめる幕府・奉行側も人間です。色々な感情が渦巻いているのでしょう。浅野さんはその気持ちを実に上手く演じておられます。

踏みゃいいやんか。なぜ踏まぬ。切支丹もバテレンも。

切支丹(キリシタン)迫害のシンボルである「踏み絵」とは何か

たかが銅板です。

キリスト教は偶像崇拝ではないはずです。神は各自の心にいるはずなんだから、踏んだところで大したことない。なんで踏まないのか私も不思議でした。

今でも踏み絵、残ってるんですね。

「踏み絵」ってどうしてできたんでしょうか?本場のキリスト教国にはあるんでしょうか?

踏み絵 – Wikipedia

踏み絵の文化面白いですね。グーグルの画像検索でも色々なものがあります。

踏み絵 – Google 検索

いらすとや踏み絵

いらすとや」さん、踏み絵まであるww

踏み絵文化は日本だけのものなんです。なんと沢野忠庵(登場人物の一人フェレイラ神父)が考えたという説もあるそうな。(何してるんでしょうね。この背教神父は…)

踏まなかったら映画のように拷問死させられる。だから、死にたくないから、だんだん時代が進むと共に信者も嘘が上手くなり踏んだふりが横行した。

キチジローが増産されたんですな。

そうしていつしか表面上は仏教徒、ただし心の中でムラで隠れて信仰し続ける「隠れキリシタン」が誕生。長崎でそのまま江戸時代から幕末まで潜伏した。すごいドラマチックですね。隠れキリシタンについて調べてみたくなりました。

いつしか踏み絵の儀式は形骸化し、長崎では幕末まで正月の踏み絵祭りみたいになっていたというから、驚きです。結局、井上筑後守の言うとおり、日本はありとあらゆるものを根腐れ骨抜き形骸化させる摩訶不思議な土地柄なんですね。踏み絵まで正月の行事にしてしまうとは…w

カトリック・キリスト教におけるグッズの役割とは

踏み絵がはじまった理由に、物に執着・物に命がやどると考える神道的汎神論かつ仏教的偶像崇拝な文化土壌が拍車をかけたのではないか。

この映画『沈黙 -サイレンス-』でも、長崎の民衆たちが、十字架や聖画をねだる。そうして物に執着して喜ぶさまをロドリコ神父たちは疑問に思っています。パライソについての考え方にも。神父が分解して分け与えるロザリオの粒を人々ありがたく推しいただくさまを見て、そういうのは問題だと。

こうしたもの(ロザリオとか)を日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼等はなにかを間違っているのではないでしょうか。

本来の教えとは違う、十字架をやたら拝したりするのは本来のカソリックの信仰の姿と離れているのです。そのあたり、日本人と西洋人は何か根本的に違うのではないかと神父は気が付きはじめるんです。

私も詳しくないので分からないんですが、宗教にはあらゆる文化、典礼グッズがある。キリスト教は偶像を否定していて、イスラムはそこはもっと厳しくて、人間を絵に描いたりするだけでアカンらしい。

ロザリオ・十字架・マリア像やキリストの磔刑図は、シンボルである。それを仏像のように拝する目的はないのです。あくまでも典礼のための道具であるだけなのに…。

とはいえカソリックは、結構グッズがありますよね。京都の河原町教会でも、美しいロザリオやマリア像が売られている。キラキラして美しい工芸品が多く、信者でなくても、持っていたくなります。

いくら偶像ではないといっても、ずっと持っていたら讃えたくなるし、お守りとして握りしめるし、ましてや踏んだりなんて出来ませんよね。

ルルドの聖マリア像 ロザリー

あまりにも伽藍や教会や司祭の役割などが形骸化、儀式化して、それに反発して出来たのがプロテスタントです。本来の聖書は神と人間の一対一の関係であると。さらには教会もいらぬと、内村鑑三の無教会主義というのもありますね。

司祭がいないと成り立たないのがカソリックです。

お守りを糾弾するキリスト教原理主義

そういや、思い出したのですが、昔、ちょろっと近所の教会に数回行ったことがあったんです。

外国人が大勢いて雰囲気が強烈でした(韓国系キリスト教はカルト性が強く問題になっているところがあるそうです)。ちょっと礼拝出ただけなのに、洗礼受けろとかセクハラっぽい実にしつこい付きまといをされて煩かった。

加えて、こりゃあかんわ。キリスト教は絶対性にあわへんわ、と思った出来事があった。(聖書は好きですが)

ある日本人の新人の婦人が日本のお守りを持っていたんですね。それを隠し持っているぞ!この罪びとが!とその外国人が大勢の前でその女性を弾劾しはじめたんです。近所の教会だからと行ったみただけで、そんな恐ろしいところとは思わなかった。あとで調べたら超!原理主義の教会だったんです。ああクワバラ。速攻逃げて行かなくなりました。

何故日本人はお守りや数珠、典礼グッズをありがたがるか

まあ、お守りくらい持つじゃないですか。日本人の習性として。パワーストーンとかすぐ信じちゃうし。特に、宗教とかスピオタクでなくても、オシャレやおまじない程度で持つじゃないですか。特に女子は…。

で、映画の貧農たちも、お守りのようにキリスト教グッズ(神父のロザリオとか)を欲しがったわけなんです。

日本人には仏教から来た偶像崇拝的な気持ちと、太陽や自然を崇拝するような汎神論的な思考が両方ある。それが実に複雑に入り混じって「沼」と称する国民性を作っているのではないか。

プロテスタントのこうした極端な原理主義はともかく、カソリックも偶像崇拝的なのではないでしょうか。フィリピンやブラジルなどもカソリックですよね。マリアが大好きで。土着的なお祭り化している。そこはやはり日本と似ているんですね。その土地の田舎風土とキリスト教がミックスしちゃうの。

キリスト教も偶像グッズがある

ロシア生協正教のイコンっていうのもほんとまさに偶像的役割ですよね。

イコン – Wikipedia

正教会においてイコンとは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものである

私たちは、キリスト教のイエス像ってこういうのを思いますが▼

イエスキリスト絵画

こういうのはルネサンス以後のものなんです。人間らしいですね。しかし、ルネサンス以前は違ってました。

キリスト教絵画中世

キリストがこっちジッと見てるのがルネサンス以前のキリスト教絵画です。

聖書を読めない文盲の民衆を教育するために絵は描かれた。ダヴィンチやミケランジェロが芸術を目的に描いたイエスマリアの絵とは全くことなります。まさしく偶像的な役割のものです。こういう目つき、画風だったんだと。絵を見て信仰を正されたり、神の神秘を感じていたんです。

踏み絵が何度も登場してそのたびに人々の運命が狂いだす映画

だから、民衆、理性や哲学や神学を分からない民衆は、物や絵にすがるしかない。仏教的偶像崇拝の土壌もあった長崎の農奴たち。彼らが典礼物にすがり神父のくれるものにありがたがり、かつ踏み絵を踏むこと=棄教 となったのは当然至極。

映画『沈黙 -サイレンス-』浅野忠信

実際、ただの絵が描かれた板にすぎないんだから

踏んだからパライソに行けない訳でもないだろう。思い切って踏んでも信仰が見破られたりもする。映画のように拷問死させられたりもする。

踏み絵は日本のキリスト教が産んだ独自の文化(?)なのでした。

江戸時代当時のイエズス会の神父たちがどの程度、聖画について偶像的役割を感じていたのかは分かりません。

原作小説「沈黙 」では

かつて雲仙の迫害でガブリエル師は日本人から踏絵をつきつけられた時、「それを踏むよりはこの足を切った方がました」と言われた

とあります。神父も踏み絵を踏むことが非常に抵抗を感じていることが分かります。

この映画『沈黙 -サイレンス-』で「踏み絵」は信仰を試すため出てきます。何度も何度も。そのたびにある者は死に、ある者は裏切って踏み、泣き崩れて絶望します。

映画の題名は「踏み絵」でもいいかもしれません。

踏もうが踏むまいが、神は何も言わない。黙っている。これが最大のテーマなのです。

映画『沈黙 -サイレンス-』ワンシーン

映画は何度も何度もこの踏み絵を踏むかどうかで皆逡巡します。何度も踏んでしまったくせにキチジローも激しく苦しむのです。

chinmoku.jp

踏み絵をするたびに謝まりゃいいもんちゃうで

映画『沈黙 -サイレンス-』キチジロー

なんでこうもキチジローは裏切るのか。こんなひどい奴なかなかいやしません。だんだん腹が立ってきて、後ろからどつきたくなる。そのくらい胸糞悪い嘘つき弱虫卑怯者、裏切り者。

この映画・小説『沈黙 -サイレンス-』の目玉キャラは、そのDQNキチジロー(吉二郎?)です。

窪塚洋介さんにしか演じられない存在感のあるキャラクター

この窪塚洋介演じるキチジロー 聖なるロドリコ神父たちの裏主人公、イエスに対するユダ的な役割を演じています。

映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作t・窪塚洋介

このビー玉のような瞳。子犬のように神父を追いかけます。

腹たつけど、かわいいですね。。

後日談で、浅野忠信さんもキチジロー役希望だったとのことです。

「沈黙」スコセッシが語る、窪塚洋介や浅野忠信ら日本人キャストは「私の家族のよう」 – 映画ナタリー

浅野キチジローも素晴らしいでしょうが、窪塚洋介のこの眼と存在感。今回の映画で、もっとも忘れられないキャラクターです。

裏切り者。ユダ。この人物がいたからこそ、成り立つ小説

キチジローは悪役ではありません。

じゃあ悪役は誰?拷問を行う奉行かもしれないですが、そういうわけでもない。ちゃんと明確な理由がある。歴史の不思議さです。皆それぞれの役割を生きています。悪役がいない映画なのに、悲惨なんです。

キチジローがいなければただのお涙ちょうだい歴史小説となりはてます。

題名の「沈黙」の意味もキチジローあってこそ。裏切り者の青年、キチジロー。親兄弟が信仰のために火に焼かれても自分は踏み絵を踏んで逃げおおせる。そんな自分を許してくれてまた告解させてくれて信仰を導いてくれようとした神父たちもサクリと密告。仲間が水攻め惨殺されても自分はヒョイヒョイ踏み絵を踏んで十字架に唾を吐いても生き延びる。

映画『沈黙 -サイレンス-』窪塚洋介のキチジロー

自分の命惜しさに逃げるんなら逃げておけばいいものの、やっぱり仲間や信仰を捨てきれず舞い戻ってくるのが腹立たしい。

「俺はクリスチャンだあ~神父さまあ、俺を許してくれえ~」

とまた獄舎にやってくる。今でいう発達障害とか何かでしょうか。自分が他者の信頼を裏切ったとか全然分からないんですね。私もよく女子間のタブーを破っては「?」となるので。

神は何回までキチジローの裏切りを許すのか

何回ウラギルねん。聖書ではキリストは罪びとを

ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ伝18章21・22節)

とあるんで、7×70で、490回ですか?

要するに、謝るたびに無限大に許しちゃれや、という寛大さです。神父もそれにそって何度も何度もキチジローを許します。(内心めっちゃイライラ)

クレアラシルがいくら返品可能だとしても何回も返してはまた申し込んで使いを繰り返してたら、顧客台帳ブラックリストに載ると思いますがね。

キチジロー、この摩訶不思議な複雑怪奇な男がいなければ

「どんなに神さまの言うこときいて信仰を貫いても神さまは沈黙してる黙っている。だから神はいないんだな、信仰なんて無駄」という結論になるところです。

「沈黙」の題名の主語は”神様”です。信仰を持つ民衆が殉教しても神は彼らを助けない声をかけない。黙っている。沈黙している。敬虔な信者相手でもそうですが、キチジローのような男が何度裏切っても神はうんともすんとも言わず沈黙。それが映画のテーマなのです。

なんで神は黙っているのだ。シカトしているのだ。と。

裏切るから分かる信仰の神秘

原作者遠藤周作さんが、自分の化身だとも言うキチジロー。

普通なら何度も裏切る人間はだんだん信頼できなくなります。嘘をついたり人を貶める人がいたら、仲間はずれにしたり、昔で言えば村八分、今はやりの疎遠・絶縁をせざるをえないでしょう。

しかし神様は違うようです。どうしてなんだろう。

考えました。たとえば家族、夫婦喧嘩するじゃないですか。たとえば、靴下ちらかさないで欲しいとか。でも何度も同じことする。何度もそれで喧嘩する。でも許しちゃう。しょうがないな。家族だから。愛してるから。とりあえず何度も喧嘩したあげく10年目には靴下!と言ったら自分で洗濯カゴに持っていくぐらいはしてくれるようになった。しょうがないな、それでまあいいかという落としどころが見つかった。

そうか、神さんはキチジローのこと、家族のように愛してるんだ。バカな子ほど、かわいい?そういうことなの?

裏切り者への落としどころがこれか、というラストでした。

映画の後半、踏み絵を踏んで傷心のロドリコ神父。彼にキチジローは召使として寄り添います。

「ありがとう、一緒にいてくれて」

とロドリコはキチジローに言います。そのシーンは観ながら涙がブワと出ました。

みんな死んだ。俺だけだ。裏切った俺には何もない。イエズス会からも籍も抜かれた。友達も死んだ。もう国に帰れない。神も俺を許さないだろう。

しかし、眼のまえにキチジローがいた。ロドリコは心底ホッとしたに違いありません。

共にいてくれる友がいた。一人じゃなかった。自分を罠にはめたこの卑怯で弱い男こそが友だった。もしかして神の化身だったのかもしれない。ボロボロになっても自分のそばにいるこいつ。彼こそがキリストイエスなんだと。

物語、最後の最後にキチジローは…。

ああ、そうか、だからこそ、神は沈黙している、けれど神は生きている、神は愛なんだ、ということになるのか。と合点しました。

映画『沈黙 -サイレンス-』ワンシーン

映画のラストは小説とは少し変えてました。根幹は変わりないと思います。観てほしいです。

日本人はキチジロー化していく

どうしようもないキチジローです。が、先日書いたとおり、以後、その他の切支丹達も踏み絵を踏むことに慣れてきます。

そうして人々は踏み絵を踏んで難を逃れていきます。

表面上は仏教徒、心の中では隠れキリシタンとして時代をしのんでいくのです。

キチジローは特異な日本人ではありません。

作者および日本人の象徴がキチジローといえるのです。

より民衆的な宗教への変質へ?

この時代以後は本部のイエズス会から神父が来ない。ますます鎖国が厳しくなります。指導者がいなくなった、キリスト教の信仰はだんだん変節していきます。

隠れキリシタンは先祖信仰とかとごっちゃになり、観音さまとマリアさまは合体。水面下で隠れて信仰しなくてはいけないからしょうがないのですが、まさに日本らしい混沌とした進化を遂げていくのです。

弱いもの、受け身で依存的な人々はどうすればいいのか

キチジローはとても受け身です。自分からは神への忠節を誓ったり身をもって証をしたりしない。なのに神父や神の愛は欲しがる。

クレクレくんです。

本来、聖書とは能動的な信仰のものです。聖書の頭につく新約旧約、の「約」は「約束」の約です。

聖書 新改訳2017 小型スタンダード版 引照・注付 NBI-30 (いのちのことば社)

でも弱い者=民衆は約束に耐えられません。

神の要求に応えるにはあまりにも弱すぎるからです。

弱いもの=日本人の象徴 キチジロー

一方的に強いすごい誰か=神に与えられる「おかげ」「現世利益」的な信仰・宗教は民衆が大好きなもの。それもカンタンな教理なものが好物なのです。

カンタンな教理だから民衆は盛り上がる

だからこそ一向宗は国の転覆を図れるほど、巨大化した。禅にはできなかった。

禅はインテリの宗教だからです。かつて元寇のとき禅宗の高僧が危惧してました。仏教が禅の理知的な教理からはずれ、現世利益的なオカルト拝み系に民衆が走ろうとするのを。禅は「おかげ」や現世利益や不思議魔法を望むものではない。座禅等、修行を通し自ら求めていくものです。

しかし、民衆は、仏像の顔を観るだけで、御経の一節を唱えるだけで、病気が治ったり極楽浄土に行けるようなの、シンプルな「おかげ」が好きなんです。

今だって、例えばアドラー心理学が好きなのは一定の層で、その他はスピパワーストーンを持ってパワースポットめぐるのが好きじゃないですか。

アドラーは難しい、自分を変えたり考えなきゃいけない。けど、水晶のブレスレットは占い師にお金を払うだけでいい。持っていたら、彼氏ができた!その方がいいよね。そういうものです。

現世利益おがみ「おかげ」は、大勢を虜にするシンプルな教えです。

キリスト教もそれと同様の迎えられ方をしたんです。信じるだけでパライソに行ける、身分の区別なく、ロザリオや聖画を偶像的にあがめたり。神父もそういった「おかげ」的民衆信仰をちょっとやばいと捉えている光景が映画のエピソードがあります。

だからこそ島原の乱は一向宗以上の結束力と民衆的な熱狂で起こったんです。

南無阿弥陀仏を唱えたら極楽浄土 イエスを信じて殉教したらパライソに行ける。パライソには年貢も苦役も飢えもない。と。

貧しくて無学で弱かったら「来世」=パライソに行こうと思うのは当然じゃないですか。飢えることもない。殉教して十字架に張りつけになったらマリアさまとイエスさまが優しく自分を褒めてくれるんですよ!先の見えないブラック企業で20時間サービス残業するよりはパライソさ行くだ!って思っちゃうことあると思います。辛すぎますが。。

キリスト教がアジアの地で民衆的に根付く。そのためには、より現世利益的なオカルト方向に走るしかないんです。

西洋的宗教=約束 アジア的宗教=「おかげ」

本来キリスト教とは、神と人との約束のことです。

契約。契約は相手と自分の約束ごと。約束は対等です。どちらかが一方的に寄りかかり甘える依存関係ではありません。義務を果たすから約束は果たされるのです。神父たちは神との約束を果たすために伝道にきた。しかし、キチジローは契約・約束の概念などなく、神への甘え、依頼心だけです。

映画『沈黙 -サイレンス-』キチジロー

見ていて本当にイラッとする態度ですが、これが日本人そのものといえます。

映画でキチジローを観ながら、あんな奴許せないとほざいていても、同調圧力で踏み絵を踏んだ覚えのある人は多いのではないでしょうか。学校会社のいじめ、自分も加担しなくても同調した振りをして止めないなら一緒のことです。戦争中の隣組体制、戦後のアメリカ占領、PTAや町内会。表面上は協力して踏み絵を踏んで、心の中では舌を出して。でも表だって変革はしない。怖いから。自分が可愛いから。だれかが変えてくれて自分を甘やかしてくれるのを待っている。救い主が再臨したら、本当は踏みたくなかったんですよお~許してえパーデレって言うのです。

約束や契約なんてこんな甘えたヤツとは結べません。

かの隣の国も日本に甘えてるんです。もしくは無知で分からない振りをしてタカろうとしているのか。

一神教の約束や契約という概念がアジアで浸透しないのはどうしてなのか。

神との約束(契約)になぜ我々日本人は耐えられないか

キリスト教の新旧約聖書とイスラム教は同根の一神教です。そして、中東、砂漠の国で生まれた宗教です。

砂漠は何もない。草木もない。水もない。とてもとてもシンプルに神と向き合います。よそ見をする隙間がないのです。

だから神と人との一対一の契約、約束が成立するのではないでしょうか。

SAHARA!金の砂 銀の星―三好和義写真集

広がる砂漠で一人、聖書の預言者が神の声を聞いた。灼熱のあまりボ~として空耳か本当に聴いたのか分かりませんが、とりあえず、聖典があるので、聞いたということにしましょう。神が砂漠で人間に声をかけなかったら、そして契約を人間と結ばなかったらキリスト教・イスラム教・ユダヤ教はできなかった。

この三大一神教は非常に能動的な宗教なんです。神は人に土地を未来を祝福を与える。でも人間も義務を約束を果たししてくださいね、という強固な契約なんです。

洗礼や告解はこの約束がベースにあるんです。キチジローみたいに裏切るのを前提に結ぶもんじゃないです。

その約束は

浮気(他の宗教に走る)しないでね 裏切らないでね 他人の前で俺のこと知らない彼氏っちゃうとか言わないでね 俺だけ見ててね!いつも俺のことだけ考えててね^^

破ったら皆殺しやで

と。西野カナもビックリの束縛っぷりです。

そうです。キリスト教の神は嫉妬する神、束縛する神、人格を持った神なんです。

その神の概念は分かりにくくないですか?

アジア人・日本人としては。人格神?神に人格があるって道真公とかそういうこと?くらいでしょう。

神さまってのはせいぜい、お天道さまであり、私たちをそこまで拘束しない。愛さない。要求しない。何となくそこらじゅうをありがたくただよっているような感じじゃないですか。お賽銭出すといいことがあるかも?受験のときとか。商売繁盛、家内安全。

重い強い愛の人格神。もしコンビニも山も川もない砂漠に一人いたら、その声はとてもクリアーに、そして大きく聞こえたでしょう。

しかし、アジアは違う。砂漠ちゃう。

霧、雨や風、雪、桜ひらひら。スコールどぼどぼ、花や鳥がいっぱい、虫もブンブン飛んでいるアジアの状況で、一人だけの神の声を聴くのは難しいのではないかと思うのです。

神のお告げがあったとしても、「?なにか誰か言った?」と気が付かないんではないか。豊かな自然の中で、雨季の台風がきたり、地面から瑞々しい草が生えて、尻にカビが生えて痒くなってきたら預言もおちおち聴いてられない。

だから日本、アジアには一神教が根付かないのではないかと思うのです。

気候の問題で!!

一人の神を裏切っても八百万、ご先祖さまや、神社に仏像。まあいいか~という具合です。

家にも聖書はあるは正月の破魔矢、各種寺、神社のお守り、クリスマスのそのときのまんまのツリーとか各種色々あります。まさに「沼」です。来月はバレンタインですしね。

バレンタインデー – Wikipedia

ヴァレンタインも殉教者の記念日だそうです…。

アーメン。

▼最後の晩餐のチョコレート型w イケメン神父に贈りたいですね。

chinmoku.jp

アカデミー賞はほとんど掠りませんが、映画人気は徐々に上がっているようです。

映画『沈黙 -サイレンス-』ランキング

注目度2位に浮上しています。こんなマイナーな題材なのに。宗教とは関係なくとも

裏切るか裏切らないか、そして何を選択して自分は生きていくのか

その普遍的問いの返答の一端がこの映画にはあるのです。